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28歳で当選 全国最年少市長はなぜ生まれたのか - 東修平 四條畷市長 #1

【東 修平 経歴】
1988年大阪府四條畷市生まれ。四條畷高校、京都大学工学部卒業、同大学院工学研究科修士課程修了(原子核工学専攻)。その後、外務省、野村総合研究所インドを経て、現役最年少市長となる(当選時28歳)。全国初の取組みとして、民間人材サービス会社とのコラボによる副市長公募や、コミュニケーションアプリを用いた協働のまちづくりシステムの構築など、新しい基礎自治体のあり方に挑み続けている。

-2017年1月に行なわれた四條畷市長選挙で、当時28歳の東修平氏が勝利し、現職最年少の市長が誕生した。就任後1年半弱の月日を経て29歳となった東市長は、今もなお現職最年少市長である。
 本インタビューでは選挙において重要とされる「ジバン(支持組織)、カンバン(知名度)、カバン(お金)」を持たない東市長の戦い方、そして、出馬にいたる歩みを詳しく伺った。
 選挙戦の具体的な話を公の場で聞くことは少ない。首長がこのような選挙を経て誕生していることについて、改めて考えるきっかけになればと思う。

科学的知識がある人間が国に足りていない

加藤(インタビューアー):最初に外務省に入られて、その後に大手シンクタンクの野村総合研究所に転職、そして、選挙に出馬されました。
もともと国家公務員になろうとした理由は何だったのでしょうか?

東市長:大学院では工学研究科の原子核工学という専攻で、原子力をずっと勉強していたんです。2011年の4月に大学4年生から修士1年に上がるんですけど、その前月に東日本大震災があったんですよ。

 原子力を学んでいた人間たちからすると、爆発してしまったことは当然で、授業でやった通り。ついこの間に習ったことだから、次に何をしたらいいか我々は分かる。でもあの時、政府は右往左往して、とりあえず現地に行ってみたり、合理的ではないことをやって被害が拡大したじゃないですか。

 僕はぼんやりとエンジニアになろうかなと思ってたんですけど、その瞬間に科学的知識がある人間が国に足りてないと思いました。それで、翌月に国家公務員試験があると聞いたので受けてみようと思いました。

加藤:それで受かるのもすごいですが、国家公務員試験は受験された区分でその年の一番の成績で受かっていますよね。それなのに、1か月しか勉強しなかったんですか?

東市長:問題を見てみたときに「これはいけるんじゃないか」と思いました。

加藤:なんで、いけると思ったんですか?

東市長:たとえば、数論みたいなのもあって、物理やっている人間からすれば生業みたいなものじゃないですか。だから、それは勉強が要らない。みなさんそこに結構時間使いますよね。専門科目や英語も院へ行くのに必要だったので直前までしっかりと勉強していたのと、歴史とか政治はもともと好きなので、あまり勉強する必要がなかった。

加藤:なるほど(笑)。それで、受かって外務省を選んだんですね。

外務省を選んだ理由

東市長:経産省や文科省は明確に文系職と理系職で採用を二分しているんですが、財務省と外務省は理系出身でも、技官として採用しないんですよ。全くのフラットで事務官採用。だから先輩たちも「あ、君、理系だったの?」くらいのことを言うんです。

 それがまず、すごく良いなぁと思った。それと、もともと何か世の中にためになることをしたいという思いが小学校くらいから漠然とありました。だとしたら、実際に国の動きを知らなければいけない。その時、中枢に最も近いのはやはり外務省だと思いました。首相の一日のスケジュール見ても、大半は外務省の人間との面会だったりする日もあるぐらいですから。

経営を知るため大手シンクタンクのインド子会社へ

加藤:外務省から野村総合研究所に転職されました。それは、何を意図していたんですか?

東市長:完全に首長としての準備です。政治家になりたいのではなく、首長になりたかったので、経営を知らないとダメ。経営を知ろうと思ったら、起業するか、トップのコンサル企業に行かないと分からないと思いました。

 でも、プロジェクトの下っ端から3年、5年かけるのは時間がかかると思っていた頃に、野村総合研究所のインド拠点が立ち上がったばかりで、日本人が足りていないと聞きました。その現場に行ったら、3年目とかの社員がやることを3か月でも任せちゃうような状況だと聞いて惹かれ、実際、レベルの高い仕事をやらしてもらえた1年でした。

価値観を変えた 外務省時代の上司の死

加藤:そうすると、2年半くらいの社会人経験の後で選挙に出たんですか?

東市長:本当は野村総研に10年いる予定だったんですけどね。僕が市長になった時、社会人3年目だったんです。職員の前ではあまり言われへんなと思ってます(笑)。

加藤:なんで、時期を前倒しして選挙に出ることになったんですか?

東市長:究極のきっかけは外務省にいる時にありました。僕は経済連携課という部署にいて、そこはTPPなど他国との経済連携協定などを担当する部署でした。

 そこに入って4か月くらいの時に、課長として配属されてきた方が松田誠という方なんですけど、外務省を代表するエースと言われるような方で、後に僕の人生の師となる人でした。松田さんもたまたま、私と同じ京都大学の原子核工学を専攻されていて、それは外務省で二人だけしかいなかったんです。

 1年生の職員は普通、課長とあまり話ができないんですけど、しょっちゅうランチとかに行って、二人で物理の話とかをしていました。そういう話ができる人間が他におらんかったんだと思います。

加藤:なるほど。

東市長:いろんなことを課長から教えてもらいましたが、想像できないぐらい優秀な方で、驚くほど仕事ができるし、終えるのも早い。TPPとかも、前任が何年も交渉を進めていたものは、普通、簡単に引き継げないですよね。それを全く継ぎ目なく担当されて、実際、彼が大筋合意に導いた立役者の一人とも言われています。

 経済連携課に来る直前では、天皇皇后両陛下が歴代天皇として初めてインドに訪問する際、1年だけその担当課長になるなど、常に国の重要課題を担当されていました。
 そんな人なのに、仕事は定時に来て定時に帰るんです。土日は家族のために料理を作ったりする。こんな人間が存在するんだと思うほど、極めて温厚で尊敬すべき人格者でした。

 びっくりするのが、松田課長は歓送迎会という行事を何よりも重要視されていたんです。5分前とかになっても、みんながオフィスでバタバタと仕事しちゃうじゃないですか。それを絶対許さないんです。課長は定時に仕事を終えて本を読んでいるんですけど、15分前くらいになったら順に声を掛けていくんです。そうしたら、仕事を止めるしかないですよね(笑)。

 珍しいですよね。なんでそんなに歓送迎会の時間に厳しいのかと尋ねたら、「いやいや東君、歓送迎会っていうのはね、これまで一緒に働いてきた仲間に『ありがとう』、これから一緒に働く仲間に『よろしく』という行事なんだ。それ以上に大切な行事があるか?」と。

 でもね、そう言って半年後に亡くなられたんです。49歳ですよ…。交渉が大変過ぎたんじゃないかと思います。定時に帰っていらっしゃったんですけど、熱心な方だったので、帰宅後もずっと勉強され、おそらく寝てなかったんじゃないでしょうか。

 その時、僕の価値観がグッと変わったんです。課長みたいな素晴らしい方でも49歳で亡くなるんだったら、自分なんかがノウノウと下積みをしている場合じゃないと思いました。僕の全ての起点はそこです。

※本インタビューは全8話です。facebookとTwitterで更新情報を受け取れます。

 

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