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畑中龍太郎6

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【元金融庁長官 畑中龍太郎氏 #6】かけがえのない時間をくれた妻と子供たち

―2017年11月12日に渋谷ヒカリエで開催された「第10回よんなな会」。国家公務員、地方公務員が600人集まる中、元金融庁長官 畑中龍太郎氏が「公務員に期待すること」、そして、「家族のありかた」についてお話された。第6話。

夫婦と子供の教育について

畑中氏:今日はご家族もお子さんも来ておられるというふうに最初お話がありましたので、結びにかえて、家庭の中の夫婦と子供の教育について一言述べさせていただきます。

 まず夫婦関係でございますが、私の妻は畑中聰子(はたなかとしこ)と申します。「耳」辺の聰明の聰で「とし」と読みます。私とは生まれも育ちも、ものの考え方も、興味や関心や思考も全く違う2人でありました。家内は40年前ですけど、高校のときに1年アメリカに留学をし、大学のときにはアメリカとフランスに4年留学をしておりました。そういう全く違う2人が巡り会った。

 そして、事後38年8カ月、一緒にガタガタ道を走り続けてまいりました。しかし、その線路がこの7月26日に突然消えてしまいました。61歳と8カ月の生涯でありました。私にとって家内は共感をできる無二の「戦友」であり、唯一の「趣味」でありました。文字通り分身でございました。

 ですから、今の私は自分の身体と心の8割が消えたような気がいたします。先ほど心の持ちようとか、心を高めるとか口幅ったいことを言いましたけれども、今これを一番考えなければならないのは私自身かもしれません。

 そういうことはさておきまして、個人の夫婦の間柄みたいなことは皆様方のご参考にはならないと思いますし、ご興味もないかもしれませんけれど、こういう夫婦もいるんだということで聞き流していただければと思います。

 今思いますと、むしろ、違っていたことが逆に良かったんではないかと。異なる世界を持ちながらその上で相互に補完しあう。それゆえに共感を分かち合えたのかもしれません。それから私は根っからの仕事人間といいますか、仕事バカでございます。他方、家内は主婦業に専念するということで、家庭の中の役割分担がはっきりしておりました。

 家内は家のことはすべて自分が決めると思っていたはずであります。その証拠に結婚してからずっと給料もボーナスもそのまま家内に渡して、私は小遣いをもらうというマスオさんを、40年近くやってまいりました。「私のものは私のもの、あなたのものも私のもの」と、そう笑って言っておりました。いくら持っていたのか、とうとう最後までわかりませんでした。

会場:(笑)。

夫婦の関係で心がけた2つのこと

畑中氏:そんな中で、わずかに私が心がけたことが2つあります。1つは家内がやることにほとんど異を唱えなかった。文句を言わなかった。これは家内が長い経験と深い信念に基づいてやっている。そういう家内を信頼していたというのがもちろんベースにありますけれども、家庭の中で言い争うほど、私自身に余裕がなかったという事情もございました。

 もう1つは心がけたというか…。私は外では甚だ無口でございますが、家に帰りますともう堰を切ったようによく喋りました。一方的に喋りました。家内は笑いながら時々相づちを打ってそれを聞いておりました。聞き役に徹しておりました。

 そういうことを通じて外で私が何をし、何に悩んでいるか、すべてわかったはずであります。特殊なコミュニケーションの手段だったかもしれません。

子供の教育について

 最後に親と子供の関係。子供の教育について申し上げます。お子さんのおられない方にはたいへん申し訳ないんですけれども、しかし、子供というのは親だけではなくて、地域・社会が育てるものでもあります。国の宝でもございます。そういう意味で少しお許しをいただきたいと思います。

 私たちの家庭には15カ月違う3人の年子がおりましたが、この3人の年子の教育はほとんど家内任せでありました。私がしたことはごくごくわずかで、必死になって考えましたけど2つしかありません。

 1つは、幼稚園や小学校の時代に、嫌がる子供たちを無理やり山登りに連れ出しました。こっちも忙しいときだったんですけど、ほとんど毎週のように連れ出しました。これは山というのは引き返さない限り、歩き続けないと目的地に着かない。泣き叫んでも届かない、自分の足で歩かないと届かない、ということを教えようと思いました。それと、自然の美しさや厳しさを身体で感じさせようと思って連れて行きました。

 2つ目は、長男が高校のときにアメリカのアンドーバーというプレップスクールに留学しましたときに、私も、忙しくて決して暇ではなかったんですけれども、毎日、毎日、1日も欠かさずに手書きの手紙を息子に送り続けました。大した内容は書いていません。「元気か。真面目にやってるか」そんな程度ですけれども、三百数十通出しました。手書きで書きましたが、ついぞ一度も返信はございませんでした。

会場:(笑)。

 しかしこうした、バカといえばバカなことを通じて以心伝心とでもいいますか、今でもお互い何も言わなくても何を考えているかわかる親子になれたと思います。このように私自身は、親の背中を見て育てばいい、体力づくりや勉強は自分自身でやるものだということで、放任主義と言えば聞こえはいいんですけど、全く無責任な教育しかしてきませんでしたが、家内は全く逆でございました。
 数えきれないほど国内各地や外国旅行をしました。そうやって行った先、行った先で体験学習を子供にさせる。試験の成績が悪いと言って叱っているのを聞いた覚えはございませんけれども、行った先々で観察や記録や、産業とか気候とか周辺研究を子供たちにこまめに作らせて、文章を作らせ絵を描かせアドバイスをしておりました。

 また、音感教育にもたいへん熱心でございまして、3人にピアノをやらせたり、中にはフルートやチェロをやるものもおります。また、子供が幼いころには、車の中で掛け算の九九や尻とり、クイズを3人の年子に競争させていたこともよく思い出します。

 このように家内は子供たちにはたいへん穏やかで、いつも笑顔で接しておりましたが、これはという時には子供を信じて「可愛い子には旅をさせよ」ということで、私はどうかな?と思ったのですが、高校のときに長男をアメリカに1年留学させ、大学のときに次男を中国に留学させました。そんなこんなで、家の中では8割方、子供たちは家内のほうを向いていたと思います。

 そんな家内が、子育てについてこういうことを言っておりました、「子供を育てることは仕事よりも何倍もたいへんな仕事なのよ。だから、私は子供が育つまでは仕事はしない。子育てに専念する」と宣言して、全身全霊で子供と向き合っておりました。また、「子供は親がかけた愛情に比例して豊かになるものですよ」ということで、自分のこれまでの人生のすべてを子供に注ぐという覚悟を持って実践をしていたと思います。

 子供が育つにしたがって、妻はいろいろなことを始めました。いろいろな顔を持っておりました。1つは関東学院の英語の非常勤講師ということで結局25年間勤めました。また、母校の田園調布雙葉学園では理事、幹事として、現役の人たちやOGが楽しめるような音楽サロンや、古典サロンができるような隣接地の買収や整備に奔走しておりました。また、地元の小学校のPTA会長ですとか青少年委員も務めさせていただきましたし、ポーセリンの絵付けとか音楽とか古典文学、そういう趣味の世界も楽しむ、いくつもの顔を持ったマルチな人間でありましたけれども、子育てのときには子育てに専念しておりました。

かけがえのない時間をくれた妻と子供たち

 かたや、私はどうかと申しますと、子供が悪さをするとか口答えをするとか、生意気なことを言ったときには「お前たちを育ててやっているのは誰だと思うんだ、コラ」というようなことを何度も言ったような記憶があります。しかし、これは全くの大きな間違いで、逆でありました。

 私たちに「人生で最も充実した時間」をくれたのは子供たちであります。親が与えたのではありません。私たちが育ててやったのではなくて、私たちに育てさせてくれたのが子供たちだったということがわかりました。
これは3人が巣立った後に初めてわかったことであります。夫婦2人だけになって初めてこれがわかりました。かけがいのない時間をくれたのは実は子供たちだったということです。

 そして夫婦だけになりました。親子は一世、夫婦は二世とよく申します。そういう意味でも、今日ご参加された皆様方、連れ合いのおられる皆様方、ご夫婦。どうかそれぞれを大切になさって、助け合って、支え合っていただきたいと思います。どうかお互いを大切にし、助け合って、支え合っていっていただきたいと思います。これが本日皆様方にお願いをする最後の皆様への期待とお願いでございます。ご清聴ありがとうございました。

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