そろそろ桜が見ごろの3月下旬、個人的には3回目になる琵琶湖疏水船に試乗させていただいた。3月28日から解禁となる疏水船は、今年から乗下船場をミシガンやビアンカなどが停泊する大津港に移動しての新規オープンである。
船は、大津港から琵琶湖周航の歌碑が残る旧三高艇庫を経由して京阪電車石山坂本線の下をくぐると、正面に石造りの大津閘門が見えてくる。大津閘門は、琵琶湖と疏水の約1メートルの水位差を調整する閘門式ゲートである。重厚な扉は、今回の大津港延伸合わせてすべて電動開閉に改装された。
閘門の正面からは、伊藤博文の揮毫「気象萬千」(さまざまに変化する風光は素晴らしい)の扁額がかかった全長2436メートルの第1トンネルの入口が見える。
琵琶湖疏水のことは本紙でも何度か紹介した。琵琶湖の水を都に引く構想は、古くは平清盛の時代にまで遡る「奇想」であった。とくに、地盤が固く湧水の多い第1トンネルの掘削工事は誠に困難を極めた。工事に先立ち2本の竪坑が掘られた。これも工期短縮をはかる「奇想」であった。琵琶湖と京都蹴上までは約8キロ、この間の水位差は4メートル、平均2000分の1という超緩勾配の難工事であった。工事を指揮したのは工部大学校(後の東京大学)を卒業したばかりの若手技師・田邉朔郎。まさに日本最初、日本人だけの手による世紀の大土木工事であった。
1869(明治2)年の東京奠都により、京都の産業は急激に衰退、人口も激減した。「狐と狸しか棲まない」とまで揶揄された京都の復興を託された世紀のプロジェクトであった。
この事業は1930年代、世界大恐慌時のテネシーバレー開発を想起させる。疏水工事のあいだ、田邉らはアメリカ・コロラド州アスペンに赴き、水力発電所を視察した。そこで得た知見から、それまでの計画を大幅に修正し、蹴上と岡崎間の落差を生かして、日本初の営業用発電所(蹴上発電所)を提案した。その電力で、京都・伏見間に日本初の電気鉄道(路面電車)を走らせ、紡績、伸銅、機械、タバコなどの新しい産業の振興をはかったのである。まさに京都再生の切り札となった。
琵琶湖疏水は2020年に文化庁の日本遺産(京都と大津を繋ぐ希望の水路琵琶湖疏水)に認定された。その物語を含め、疏水建設の記録は、琵琶湖インクライン下の琵琶湖疏水記念館に集大成されている。この館を核に、疏水全体をフィールドミュージアムとする計画(文化観光拠点計画)も認定された。
明治の一大プロジェクトを肌で感じることができる琵琶湖疏水の周辺は、まさに近代京都を生み出した記念すべきエリアである。歴史都市京都のもう一つの顔でもある近代京都の建設。これをテーマとした新しい文化観光拠点づくりが、誠に期待される。
(観光未来プランナー 丁野 朗)