2016/9/16に掲載された「地方自治体におけるNPSの活用」でも少し触れたが、私は神奈川県茅ヶ崎市に住んでいる。
友人の結婚式で逗子や二ノ宮を訪れ、湘南に魅了されてしまった。茅ヶ崎に引っ越してからというもの、好きな街で暮らすことの良さを知った。
街のことが好きになると、何かこの街に貢献することができないものかと、自然と考えるようになる。ビーチクリーンのように「らしい」活動もあれば、こうして茅ヶ崎が良い街だと発信することも、その一つだと言える。
普段生活している中ではっきりと認識しづらいが、街を良くする仕事をしている人たちといえば、自治体職員である。例えばあなたが都心に住んでいて、家の前の道に整備が必要なときは、市の道路管理課などを頼るのが普通だろう(※その道路の管轄にもよる)。
時代をさかのぼれば、むかしは住民が手分けをして道を掃除したり整備していたりした。いまでも田舎だとそういう地域も多くあるだろう。
これから益々人口が減り、さらに高齢化社会となると、都心に住んでいたとしても、行政を頼るばかりでは社会は成り立たなくなる。2020年を境に、東京でも人口減少が進むと言う話もある。
日本に住んでいるならば、地域住民ができることは、地域住民が積極的にやるべき社会が戻ってくる。
これは何も悪い話ではない。
良い話の一つとしては、その道を使う地域の人たちにコミュニティが生まれるきっかけとなる。そういうのはちょっと面倒だと思う人も多いだろう。私もどちらかと言えばそっちの部類だ。
ただ私にも子どもができて、近所の子たちと木登り(家の前に大きな木がある)や鬼ごっこをして遊んでいる所に顔を出せば、子どもに引っ張られて交流が生まれる。
交流も生まれてしまえば、悪くないなあと思う。いや、むしろ良いと思うようになった。
山崎亮氏の「コミュニティデザインの時代」の言葉を借りれば、
「つながりがなさすぎるのは生きにくいが、つながりがありすぎるのも生きにくい。いいあんばいのつながりを探っている。」
という心境である。
ただ、この様な地縁型コミュニティはどうしても時代の流れから衰退している。その代わりに、共通の趣味などを通じたテーマ型コミュニティというものがその代わりを担える可能性がある。
少し長めだが、先述の本で非常に納得させられたので以下を引用しておく。
「コミュニティにおける人間関係にはほとんどお金が発生しない。誰かに何かをしてもらうと「ありがとう」という感謝の気持ちを伝える。と同時に、「あの人には世話になったから、今度は何かでお返ししなくちゃ」という気持ちが残る。この気持ちが、世話をした人と世話になった人をつなげ続けることになるのだろう。
世話になった人が後日、結構な「お返し」をすると、今度はぎゃくに世話をした人が感謝をすることになる。「自分が世話した以上のお返しをもらった。今度はこちらが何かできることでお返ししなくちゃ」と感じる。いわば、いつまでも「お釣り」が残る関係だ。その結果、つながりが持続されることになる。
これをお金で処理し始めるとつながりはそのつど切れていくことになる。「世話してもらったので3,000円支払います」ということになると、それで関係をいったん切ることになる。(中略)
その意味では、現金を介さない関係を多用に持っておくことがつながりを豊かに持った人生をつくることになるわけで、コミュニティはまさにこの種のつながりをいろんな方向に持った人たちの集まりだといえよう。」
これからの時代、90歳以上まで生きるかも知れない。定年退職の基準が変わり、70歳で引退しても、20年以上ある。そのとき、お金や健康があっても、コミュニティがなければ退屈な人生を何十年も送ることなり、孤独死という結末が待っているかも知れない。
でも、何をしたら良いかわからないという人も多いだろう。そんなときは、まず行政に任せているようなことを自ら取り組むことで、ある意味「お客さん」として暮らしていた状態から、「自分が守っている街」という風に意識を変えてみるところから始めてみてはいかがだろうか。きっと時代もそれを真剣に求めてくる頃だろう。
そうすることで、生きがいとコミュニティを見つけられるかも知れない。
湘南在住。不動産情報ウェブサイト運営会社、お出かけ情報ウェブサイト運営会社にて営業・企画職を経た後、現在は総合ポータルサイト運営会社にて企画職に従事。
(※本コラムは、” 小野寺将人のブログMASATO IN CHIGASAKIの、読書メモ「コミュニティデザインの時代 – 山崎亮」”を、自身でHeroes of Local Government用にリライトしたものです)