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仲川げん TOP8話目

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【奈良市長 仲川げん氏:第8話】市長は『街の編集長』

経理の経験で お金を通じて組織の動きが見えるようになった

加藤:市長としてお仕事されている中で、民間企業にお勤めになられた経験は生きていますか。
仲川市長:そう思います。1つには、お金の流れを読めるっていうことですね。私はこう見えて実は経理部だったんです。見た感じは営業っぽいでしょう(笑)。私自身も間違いなく営業に配属されると思っていたのに、なぜか入社すると「主計1課に配属」だと。
 『主計』って今どきないですよね(笑)。そこに配属されたんですが、めちゃくちゃ厳しい鬼課長がいて、「いい加減なやつは許さねえ」が口癖でした。そこでかなり絞られた。
 「最初は自分には合わない」と決めつけていましたが、ある時先輩から「お金の流れが見えると、会社の流れが分かる」と教えられました。
 そう言われてみると、今、うちの会社が何をしているか、これからどういう分野に攻めに行こうとしているのか、どういうところにコストがかかっているのか、など、お金の流れで見えてくるものは多い。
 芸者に花代を支払っていたりして(笑)、それを通じて、『組織の動きを理解するっていう力』を身につけられたというのは、大きいと思いますよね。
加藤:経理1本ですか?
仲川市長:実はそうなんです。私が昔、石油会社にいたって言うと、大抵の人はアブダビなんかで「ガガガガ」って、地面を掘っているみたいなイメージを持たれます(笑)。
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加藤:(笑)。

会社に倍の期間残っても 学びが倍にはならない

加藤:サラリーマン生活を続ける中で、どういう転機があったのでしょうか。
仲川市長:もともと自分で起業するなり、何かしたいなと思っていたんです。ただ、世の中の企業がどういう風に成り立って、運営されているのかを知るには、新卒という権利を行使して、大企業に潜りこむのが一番良いだろうと思って、いわゆる上場企業にとりあえず入ったと。
 入社してしばらくは、まだまだ学ぶことは多いなとは思いましたけど、一通り最初の3年間で学んだものがあった。でも、あと3年間ここにいたら、学びがさらに倍になるのかっていうと、そんなイメージは持てなかった。
 それで、3年で辞めて、とりあえず引っ越し荷物を置きに帰るぐらいの気持ちで、地元の奈良に戻って来ました。またここで人生を変える出会いがありました。

社会を変えようとする市民団体との出会い

仲川市長:私が奈良に戻った2001年は、95年の阪神大震災後にNPO法ができて、あちこちにNPOの卵が立ち上がり始めた時期でした。みんなそれぞれに情熱を持ち、強い当事者意識の中で、なんとか活動を広げようと奮闘されている市民団体と出会う機会があったんです。
 みんな、予算や人手が足りないながらも、一生懸命、社会を変えようしている。当時、たまたま乗った電車の中で見かけた、退屈そうに携帯を触っている会社帰りのサラリーマンとのコントラストに、「これだ!」と確信しました。

奈良で暮らす外国人の支援活動に関わった

加藤:NPOではどういうことを感じたのでしょうか。
仲川市長:私自身もNPOという形態で活動していましたが、活動内容としては、他のNPOをサポートする中間支援組織と呼ばれる分野でした。資金力の乏しい草創期の団体に運営のノウハウをアドバイスしたり、行政や民間企業との橋渡しを行ったり。ここで、サラリーマン時代の経験が生きました。
 初めに関わったNPOは、奈良で暮らす外国人の支援活動を行っていましたが、まず学校から届くお便りが読めない。
加藤:海外で暮らすのは大変な部分もありますよね。
仲川市長:外国人児童が入学すると、教室では通訳を付けることが多いのですが、保護者のサポートまでは手が回らない訳です。一方、子どもは学校でどんどん日本語を覚えてくるので、家庭内での会話もぎくしゃくしてくる。お弁当に母国料理が入っていると苛められるという話もありました。
 いろんな分野で行政の制度やサービスから漏れ落ちる人たちがいる、という事を感じました。
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一番早いのは首長になること

加藤:その後はNPOの活動はどうなっていったのでしょうか。
仲川市長:当時は右肩上がりでNPOが増え、一種のムーブメントになっていましたが、ある時、「これって本当にNPOがやるべき事業なのか」と悩むようになりました。そもそも行政がしっかり対応できていれば、誰も困らないんじゃないか、と。
 NPOが取り組む社会課題の多くは、その向こう側に行政の存在があります。時には行政に対しても政策提言もし、職員と一緒に協働で事業に取り組むこともありました。だけれども、ようやく関係性ができた馴染みの担当者も、2年3年ですぐに異動してしまう。
 そうすると、また振り出しに戻ってしまう訳です。いつまで経っても現場のNPOが抱える地域課題と、行政の認識や仕組みがマッチしない状態が続きます。それならば、自分が仕組みを作る側に回ったらどうだろうと思うようになりました。そうなると、一番早いのは議員ではなく首長になることだ、と。非常に単純明快な理由ですね。

市長は『街の編集長』

加藤:実際に市長としてお仕事されてきた中で、どういうところに『だいご味』がありますか。
仲川市長:一昔前は国が決めた法律や制度を下請けとして執行するみたいな、『機関委任事務』のイメージが強かったと思うんですね。山積みの書類をルール通りに1枚ずつ片づけるような感じで・・・。
 だけど、今は地方が独自にいろいろとメリハリをつけて自由に事業を組み立てる。場合によってはオーダーメードの行政をやっていくっていう時代なので、自分たちの町を自分たちでプロデュースできることがすごく面白いです。今の市長の立場って、ある意味『街の編集長』なんですよね。
 奈良市くらいの地方ですと、民間の担い手の人たちがそれほど沢山おられるわけじゃないわけですね。東京だったり大阪だったりすると、セクター毎で個別にプレイヤーの方が沢山おられて、行政は行政の仕事に集中してやっていればいい。
 だけど、地方の場合は、そういう業務を請け負う人や人材がいないってことが結構あるんです。だから、行政の長はある意味、この市役所っていう組織の長であると同時に、街全体のプロデュースする役割もある。そこがやっぱり面白い。
加藤:なるほど。

若草山焼き

若草山 山焼き

他所の町で市長を10年間やってきた人はいない

仲川市長:私が当選した2009年には、私よりもさらに2歳若い熊谷俊人さんが、まず千葉市長になられ、その後、同い年の吉田雄人さんが6月に横須賀市長に就任された。そして7月に私が選挙。
 毎月、若手市長が立て続けに生まれた時期でした。この当選同期組の市長はみんな「若いのに大丈夫か?」という言葉をかけられたことが一度や二度はある。しかし、我々は口をそろえて言うんです。「市長の仕事に経験者はいない」と。逆に言えば、他所の町で市長を10年間やってきた、なんて人はいない訳ですよね。

行政は限られた伸びしろのあるセクター

仲川市長:特に私は職員でも議員でもなく、完全な外野から来ました。「せっかく」と言ってはなんですが、そういうしがらみのない立場でやらせていただいているので、今までの枠にはまったような取り組みじゃなく、多様なアイデアを持つ外部のネットワークも活かして挑戦することで、街の可能性をいくらでも伸ばすことができると思っています。
 市長の仕事は全方位、360度の視野角が必要ですが、社会全体を見渡すとやっぱり、行政と教育の現場が、一番変革が遅れている。時間が昭和で止まっているんです。逆に言えば最も伸びしろのある分野。たとえばトヨタ自動車が、今から生産性を倍増させようと思っても無理がある。
 だけど、行政が生産性やパフォーマンスを上げようっていうのは、割と伸びしろが残っていると思います。そういう意味で自治体行政は、日本の限られた「伸びしろのあるセクター」だと思います。

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※本インタビューは全9話です

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