最北の町と言われる北海道稚内。訪れた5月下旬は、利尻富士がくっきりと見渡せる素晴らしい季節を迎えていた。今回の訪問は、そんな大自然の中にひっそりと佇む戦争遺跡「稚内赤れんが送信所」の保全・活用がテーマであった。1931(昭和6)年、旧海軍が北の防衛のための送信所として建設した赤れんが建物(旧海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所)である。
この送信所の歴史を知り驚いた。太平洋戦争開戦の真珠湾攻撃の電文「新高山登レ1208」は、択捉島単冠湾から真珠湾に向かう空母6隻の大連合艦隊に、この送信所から中継送信されたものであった。太平洋戦争の終結は、日本に悲劇的な結末をもたらした。択捉を含む北方4島、さらにはサハリン(樺太)の北緯50度以南の地は、ソ連軍の侵攻により島民たちは故郷の島を追われることになった。
そんな悲劇の歴史を背負った赤れんが送信所だが、その歴史を後世に残し伝えていきたいと願う市民有志が、2006(平成18)年に「稚内市歴史・まち研究会」(富田伸司会長)を発足し、築90年を経過し、朽ちかけた3棟の赤煉瓦建物の保全活動に着手した。
赤れんが送信所は戦後1959(昭和34)年までは米軍第一空挺部隊が駐屯したが、その後は放置されていた。2002(平成14)年に地元建築士会が調査し、これがきっかけとなり研究会が発足、少しずつ補修活動が始まった。
3棟ある送信所のうち、一番小さいC棟の補修から始まった。既に屋根は抜け落ちていたが、地元板金組合の協力で屋根を葺き、建具組合などの協力で窓の修復が実現した。次に大きいB棟は、補修計画前の年の大雪で被害を受けたが、地元財団の多額の助成を得て屋根の半分程度は修復が実現している。268坪と最も大きいA棟は、ボランティアの手には負えず、未だ手付かずのままである。
今回開催したシンポジウムには、多くの市民が駆けつけ、赤煉瓦送信所の保全と活用をどうするか熱心に討議された。地域に残る歴史遺産の保全活用は、何よりも地域の理解が最も大切である。最近は補修や活用にクラウドファンディングやふるさと納税などが活用されているが、それも地元の方々の想いがなければ成功しない。
稚内は、17世紀に松前藩が宗谷場所を開設して以来、ロシアとの交易と北方警備の国境の町として発展した。北の守りとして会津藩や秋田藩も大きな力を発揮した。明治には旧海軍がバルチック艦隊を見張る大岬海軍望楼なども設置された。
また稚内から樺太(大泊)を結ぶ稚泊連絡船もあった。その駅舎などを海水から覆うドームが、北海道遺産となった北防波堤ドームである。研究会では、赤れんが送信所を含む稚内の歴史ストーリー(宗谷防人物語)を描いている。地域の地政学を語る物語として、のちのちまで語り継いでいきたい。
(日本観光振興協会総合研究所顧問 丁野 朗)
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