[記事提供=旬刊旅行新聞]
2020(令和2)年の認定以来、追加認定のなかった日本遺産は、今年2月、5年ぶりに新たな認定を行った。「北海道の『心臓』と呼ばれたまち・小樽~『民の力』で創られ蘇った北の商都」である。
タイトルの「小樽の心臓」は、小樽で青春時代を過ごした小林多喜二が、「北海道の『心臓』みたいな都会である」と表現したことにちなむ。そして「民の力」は、明治以降、物産とともに各地から押し寄せた多種多様な人々の「民の力」によって小樽独特の建物とまちなみが創られ、そして1960年代以降、市の世論を二分した小樽運河論争を経て、現在の年間800万人が訪れる小樽をつくってきたことに由来する。
小樽の運河論争といえば、私にも忘れられないエピソードがある。当時、私が所属していた(財)余暇開発センター理事長で、元通産省事務次官だった佐橋滋さんが、運河論争の渦中、小樽での朝日新聞社主催の講演会で残した言葉である。
「歴史的投資(ヒストリカル インベスト)」という概念である。運河は、数多くの先人たちが残した歴史的投資であり、埋め立てはしてはならないという内容であった。「投資とは本来、現在の消費を抑え、後日に喜びや恩恵を与えてくれる。それは長い歳月や歴史だけが創りだせる投資で、後々まで人々に精神的喜びや感動を与えてくれるのだ」(佐橋滋講演録より)という呼び掛けであった。
今回の日本遺産認定で、小樽の日本遺産は3つになった。明治以降の小樽をつくった「北前船寄港地・船主集落」と「本邦国策を北海道に観よ! ~北の産業革命「炭鉄港」~」である。これらは小樽の歴史の中ですべてつながっている。
小樽は江戸末期よりニシン漁場として知られていた。1869(明治2)年に開拓使が設置され、商船の航行が自由になると、各地から開拓民が小樽に押し寄せ人口が急増。北前船は従来の交易に加え、北海道開拓を支え、小樽発展の礎をつくったのである。
また、明治30年代には北海道随一の港に発展した小樽と、第一次大戦後の国産技術による電化・機械化で新鉱開発が進んだ空知、1934(昭和9)年の日本製鉄合併を機に大増産体制となった室蘭。小樽の「港」は「炭」と「鐵(鉄道・鉄鋼)」の要でもあった。
日本遺産タイトル「民の力」は、小樽に限らず、どの地域も試される。若い世代が歴史を継承し、新たな発展の土台を築いていくことは、地域の大きな課題である。

観光地化した南運河周辺だけでなく、旧日本郵船小樽支店や旧手宮機関庫などがある北運河周辺など、小樽の歴史を面として生かすことも次の大きな目標の一つである。
「歴史的投資」とは、歴史資源を生かして、次の時代の新たな産業や雇用を生みだす行為と言える。まさに小樽の「民の力」が試される言葉でもある。
(観光未来プランナー 丁野 朗)